BAD EMS(バート エムス)

ドイツの2月とは思えない陽だまりの午後

ラーン川に添って立つ温泉施設
2月の晴れ上がった土曜日。小春日和にお出かけ。家から約1時間ほどで、ローマ時代から、温泉聖なる泉がある場所として知られていた、エムスへと、向かう。この町は、LIMES(リーメス)というローマ軍による、西洋版の万里の長城ともいえる、砦の街道(ドイツリーメス街道)が通っている。ローマ帝国の拡大路線は、紀元9年のトイトブルクの森の戦いでローマ軍が大敗した後、ゲルマンの頑強な抵抗にあって押し戻され、ライン河・ドナウ河を境界線としてほぼ勢力が拮抗するにいたる。ローマの軍団はライン左(西)岸とドナウ右(南)岸にいくつもの駐屯地を作って行く。そして、ラインとドナウの間の地域にはリーメスと呼ばれる要塞線を作るのだ。それが通っていた場所のひとつが、BAD EMSだ。別冊温泉の歴史にもあるように、駐屯していたローマの兵士達にとっては、それこそ命綱とも言える飲料水確保の意味合いも兼ねていたに、違いない場所だ。ここに、彼らは飲料可能な温泉(一石二鳥)を発見するのだ。14世紀には森の中に男女混浴の野外の温泉の施設さえも出来上がっていたと言う。 この野外温泉施設(Wald Bad)は1820年から60年にかけて、一大温泉施設となり、その前(1712/15)には、当時の領主であったナッサウオラニエン家のもと、バロック様式の上記写真のような泉を囲う温泉施設も建てられていく。歴史の中で、この場所が重要な役割を果たしたのは、プロイセンの時代である。ウィルヘルム1世が1867年から1887年まで、毎年ここに逗留していたが、1870年7月13日、ここから、実質的なフランスに対する宣戦布告にあたる、EmserDepesche(エムスの電報)を発信することになる。背景にはスペインの継承問題、(ブルボン家に代わって、ホーエンツオレロン家が候補に上がる)もあった。写真の川べりのプロムナードで、フランス大使ベネデッティが、逗留中のウィルヘルム1世に、この継承を辞退するように迫ったことが発端であった。そして、最終的に近代的なドイツの統一が、ここから発信された電報により開始された、普仏戦争の後、(1870/71) ウィルヘルム1世、とビスマルクのコンビによってなされるのである。

泉への入り口

このホールを抜けると泉

Kessel(お釜)と Kranchen(王冠)の泉
19世紀の温泉全盛時代には沢山の著名人たちが逗留した場所にふさわしく(今はちょっとさびれてるけど、、)ハイソな雰囲気が残る温泉会館内。現在の逗留客のために、音楽会なども行われるようだ。写真の柱の右が小音楽ホールになっている。フレンチカンカン(ムーランルージュ等で演奏された天国と地獄も)の作曲で有名なジャック=オッフェンバッハも11年間(1859−70)ここに住んでいたらしいし、かの、リッヒャルト=ワーグナー(どこでも出没するなあ)も1877にここを訪れた。ロシアのアレキサンダー2世(3世橋はPARISにあるけど、、)6年(1870−76)住んだ。なんと不覚にも、コップを持参し忘れ、なめることしか出来ずに残念至極。お味の方は、甘味のある塩味で、むしろ最初には、あまーい、やわらかーい感覚が舌に残る。
最初私は気がつかなかったが、旦那が、わ、こりゃ珍しいと言って、写真をとった場所がここ。温泉といえば、勿論日本では浸かって温まる。こちらでは前項にも出てきたように男女混浴の露天風呂があったけれど、廃れていったのは、伝染病が(チフス、ペスト等)原因と言われ、その後は飲料に依ることが多くなったそうだ。日本では銭湯では、鎖国等の理由から、伝染病に感染することは少なかったのかも知れない。でも、お水、お湯を飲むのは聞いたことがあるが、ここは、うがいとは、、!と、ドイツ人もびっくり!成分表を見てみると、硫黄とか塩素とかが含まれているらしい。これが理由?かなあ。素晴らしい王冠の泉は会館の突き当たりに位置しているが、泉のそばには温泉療養の人たちが座って、ゆっくり新聞を読んだり出来るようにソファーが置かれている。今日も常連さんらしき人たちが静かに新聞を読んでいた。
左の写真は読みにくいけどうがい室と書かれている
上の写真は成分表です。クリックすると大きくなりますが元に戻るには戻るを使ってください。右の写真は、1800年代に使用されていたエムスのお水のウォーターボトル。約20の源泉からの出水はブランド名を、エムスの王冠と、名づけられて、その当時で、200万トンを越すミネラルウォーターが年間に出荷されたそうだ。1858年からは、喉のくすりとして今も勿論薬局で売っていて、姑が一番良く効くと言っている、喉薬(トローチ)がエムザのパステルンと呼ばれるものだ。(いずれも右側)壁のレリーフの人は、フレンチマンの作曲家ジャック=オッフェンバッハで、彼の6年間住んだ表道リの家に飾られていたもの。残念だが普仏戦争で、フランスに戻ったらしい。(左側)