ゆきんころじー
 第4話   金婚式秘話                                 

3月10日は義理の両親の金婚式!でした。
義理の両親2人と、我々夫婦は彼らの50年前を探しだす旅に付き合ったというわけ。
彼等が出会って、新居を構えた、元の東ドイツ、アッシャースレーベンとハレ、ハルツ山地(ゲーテもよく行った場所)へ、いってきました。
1泊2日の旅でしたが、全く色々考えさせられる内容の濃い旅行でした。
 
義弟夫婦は、行くといってたくせに、思ったとおりの直前CXL。
 
良い子ちゃんシンドロームのうちの旦那は、先週も私の下見旅行でベルギー往復800KMをり、今週も代替DRの義弟なしに2日で850KM、見物しながら走り、帰りはとうとう家のすぐ近所で、BACKミラーが対向車と接触事故を起こしてしまいました。
 
こちらは何とも無かったのですが(さすが古くてもBENZだ!) 相手のVOLKSWAGENはというと勿論ミラーがダメージをうけ、ドイツでは当たり前の、後には絶対引かない、又は引けない、言い合いというより、私からはどう見ても、言い争い、の結果、50DMで示談にし事無きをえましたけれど。
(こんな時、俺のせいだったかなあとおもっても、引き下がってはだめなのがここドイツです。)
どちらかの保険を使うことになると、それでなくても高い保険料、せっかく無事故で半額になっていたら、又100%支払いにもどってしまうでしょう?それよりも、お互い丸く治めたほうが得策。
雨の山道、真っ暗ななか、お互い80KMで走っていて、どっちが対向車線を越えたかなんて、どっちも定かじゃなく、相手が100DMと言ったんで、50:50にしたと言う訳なんでそうです。
 
ちょっと、話がいつものようにそれてしまいましたが、我々も出来ることならPASSしたかった
彼等の過去に付き合うTOUR.、
でもまあ家族全員で行くんだったら、この際金婚式を迎えられる夫婦、特にこのドイツに至っては
ほんとうにわずかなんだし、なんせ50年ですもの、仕方ないか、、ってなことになった次第。
私としてはちゃっかりと、じゃあ近くの世界遺産の町2つをついでに見てくるか、とも思いましたしね。
 
ここドイツでは離婚は日常茶飯事。
旦那のクラスでも、異母兄弟、異父兄弟のいる子の方が多い実情で、これは私もあんまり、まだ心情的にはなじめないでいるんですが、なんでこんなにあっけらかんと、わだかまりもなさそうに別れた同士が、お互いの新しい家族と、当たり前に行き来できるのか?
理解するにはまだ時間がかかりそうです。
 
又、結婚そのものが、相続問題に関わるのみで、日本でいうところの内縁の関係であろうと夫婦であるのと同等の法律上の権利が与えられるので、結婚しないで同棲関係のままでいるCPLの割合の方が多く(ちなみに弟達も22年も一緒に暮らしてはいますが結婚してない!!)
ま、結婚するのは子供を作ろうと決心してか、できちゃった結婚がほとんどのようです。
そういえば、私の計算でも、うちの旦那8月生まれなんですが、なんで3月10日が金婚式???
あまりに月足らずですよね!おっとっと。
 
 
前日は咳き込んで眠れなかった私は、悪いとは思いつつ、後部座席で絶え間なく喋る続ける義母を
尻目にアウトバーンの快適さにうつらうつら。
 
私は、過去は過ぎ去ったもの、これからのそして今の生活に追われ、思い出している暇もないというのが本音ですし、過去を振り返り、なつかしむと言う行為そのものがあまり理解できないタイプの人間ですから、少なくても2日目の朝までは、正直いって、後部座席でほとんど絶叫に近い声でほら見てみて!!そこ曲がるとあーあったわ!変わってない、でももうちょっと修理して欲しいわね.-.この通りの名前覚えてるわ!クックマール!クックマール!!(みてみて!!)と叫びつづける彼女に、おーい、もうちょっとなんとか、ならんのんか?の心境だったんです。昔住んでた家の前で、写真をとったり、初めて出会ったCAFFEを探し回るのは、ともかく私の趣味ではないんだよなあ、、。
 
1日目はこうやって過ぎ去り、さて2日目は朝食のあと義父の父母のお墓参りをすることになり、幸い晴れ上がった青空のもと、広大な墓地のどこに彼らのお墓があるのか?
義父はなんと49年ぶり、西に逃亡する前に義父の父がここに永眠した折から、義母はというと35年ぶり、義父の母が永眠した折に、義父には東へ戻る許可がおりず、義父の代わりに、自分の義母にあたる人の永眠の時、ここへやってきたのが最後。
古い記憶を頼りに、日曜の墓地で、御墓の御掃除をしている御墓参りの人達にも、1952年に整備された区域を聞きまわって、でもさすが義母!彼女はよっく何でも覚えている、時々忘れて欲しいことまでもですが、兎も角よく記憶していたこともあり、程なく見つけ出すことができました。
 
ここドイツでは埋葬されるのはこのごろは荼毘にふされることも可能で多くなりましたが、基本的には土葬の世界らしいです。御墓も日本のように永代が普通ではなく、25年を最低として、更新されなければ新たな家の御墓として使われるのが普通です。
管理費用をおさめていると、墓地の管理会社が掃除その他をしておいてくれるので、こんなに長い間、ほとんど誰も来なくても、さすがドイツ。御花は勿論ありませんでしたが、きれいに御掃除されていました。
その反面管理費を支払っていそうにない多くのお墓はつたの葉が茂っているのみです。
なだらかな坂道を杖をつきながら上ってきて、御花をそなえた後、祈り始めた義父の背中が震えていました。50年間の記憶がよみがえって、本当に感無量だったのだと思います。
 
ここで、私はただただ反省。
昔から私を知ってる友人達は私の人生、波乱万丈っていうんで、私としては今だけ前だけ見て一生懸命生きてるつもりなんで、そう言われると、ちょっとショックな事も確かなんですが、そーんなそんな、私が波乱万丈なら彼等の人生はなんと表現するべきか?私なんてちょろいもんだと、言わざるを得ないことは確実です。
 
そういえば、大地の子(NHKのドラマ)一時はやりましたよねえ。
私も鼻をグシュングシュンさせなから涙で画面が見れないなんていうことも度々のドラマでしたけど、ドイツも日本とおんなじで敗戦国が、日本はたった1国(USA)に占領されたまことにLUCYな国でした。
あの時、中国やロシアと分割統治されてたら?と考えるとぞっとしませんか?
ドイツも、アメリカに統治されていた地域が、他はともかく物質的には豊かだったようですよ。
 
彼等のもともとの出身地は、いまのチェコです。
戦前そのころはチェコスロバキアでしたが、人口が3450万、戦後は1000万少なくなり、2393万。
何故そんなに人口がへったのかというと、戦争による犠牲者は勿論ですが、
そのうちの350万は戦後の追放?移住?命令によって、追い返されたドイツ人だったんです。
 
チェコスロバキアの国が発足した当時は、人口比の28%ものドイツ人が居住していて、その割合はスロバキア人より(13%)多かったんだそうです。
義父母の出身地ズデーデン地方とは、オーデル、ナイセ河の低地で、今のドイツ、オーストリア、ポーランドの国境地域には、それほどたくさんのドイツ人がすんでいて、エルツ山地からでる豊富な鉱石、特に、16世紀の昔から、銀はドルの語源になったほど豊富で、多くの鉱山関係者が、ドイツ人だったようです。
イスタンブールのトプカピ宮殿のあの膨大な銀製品の銀の原産地もヨアキム谷、銀貨もヨアキムターラーと呼ばれ、ですから、ドイツ語の谷を意味するタールがなまってドルになったんだそうですしね。
両河川岸には、工業も発展していました。
このドイツ人達は、後に、ズデーデンドイツ人と呼ばれるんですが、彼等がこの当たりに住みつきはじめのは、11世紀の昔からだったようです。
義父母の父母達はですから、国籍としては、まだハプスブルグのオーストリア、ハンガリー帝国人だったわけです。義母の母は、ちなみに90歳まで生きたらしいですが、彼女の国籍は、オーストリア、DDR、BRDと4回も変わりました。
彼女の意思とは別なところで、、。
 
義父母の先祖たちも、ここに住みつき、父方は門から家までずっと並木があったような、大きな農家だったようで、母方は、工場を経営していて、エルベのほとりと、ボヘミア山地にあった、VILLAの思い出話を義母はよくします。
 
どいいういきさつで、彼等家族がアッシャースレーベンに住みついたのか、聞いていませんが大きな工場が、彼等のソ連占領下における働き先だったようです。(たぶん、ソ連赤軍によって強制移住させられた先だと、私は思います。)そして、これから先に書くことは、あくまでも義父母たちに直接聞いたわけでなく、
私が色々なことを、つなぎ合わせて憶測したものですので、あしからず、、。
 
4年のカリフォルニアでの捕虜生活の後、送還され故郷で小学校とロシア語の教師をしていた義父とやはり別の小学校で教えていた母が、ともかく結婚したのが50年前。
まず、工場主だった義母の父がBERLINから一人で西へ脱出し、後を追って義母の母も西へ。
勿論落ち着いた義母の両親は一人娘の義母にも、なんとかして家族と西へ来いと言う。
11人兄弟の末っ子の義父は、後に残すとすると悪名高いシュタージのことを思うと、両親や兄弟が心配。でもこのままだと、インテリ層の子弟(つまりうちの旦那と義弟のこと)は労働者にされ、高等教育は受けさせようとしても受けさせてもらえない。義父は悩みに悩んだと思います。
そうこうしているうちに、義母の父が亡くなってしまったとの知らせがはいり、御葬式に出席するという理由であれば、まだ、ケネディー政権の前だったこともあり、うまく家族全員に西への旅行許可がでて、そのまま、うちの旦那が6歳、義弟が3歳の時、スーツケース2つでで西に、逃亡してきたのではなかったのか?それから後だったら、冷戦状況がもっとシリアスになりましたから、BERLINに壁も築かれ、あと数年でたぶんもう、西への家族全員の脱出は不可能になっていたに違いありません。
 
西では東での教師免許は通用せず、義父はもう1度最初から大学にへ行きなおして、今度は養護教員の資格をとって、養護学校の校長を務め、今は勿論定年退職して毎日が日曜日。
 
義母は結構御喋りですから、よくチョコ時代幼いころの写真をみせておはなしをしてくれますが、つらかった時代の事は、決して2人ともはなしません。(その気持ちは、すごーくよくわかる。)
 
というわけで、ほーんと、色々考えた、2日間でした。
 
裏には、もっともっと、複雑なEUR地域の民族問題、宗教問題絡んでます。
 
日本に住んでる限りこの民族国家思考はあまりに当たり前すぎますから、枠超えするなんて、そんなこと考えもしないですしね。大陸思考は、あるわけないですしね。